基礎人間問題精構

人間っていいな

嫌いな人間

誰しも嫌いな人間の一人や二人は存在するだろう。かく言う私も、嫌いな人間を数え上げれば10人以上はいる。生まれも育ちも千差万別な我々が、すべての人間を嫌いにならないなんてのは土台無理な話だが、なんの権威も持たない一個人が他者の良し悪しを感じるのも如何かとは思う。そうやって人は矛盾を抱えて生きていくものだ。我々に必要なのは、他者を理解しようと努めることでなく、徹底的な不干渉により自分を守ることかもしれない。

人と関わるということ

人と関わるのは難しい。一人一人が自身を形作る概念を持っていて、それをそっと心の中にしまっている。そして、私たちは互いにそれを探り合いながら関係を保っている。人と話すときは、相手の感情が気になってしまう。たとえオープンな関係に見えても、そこには微妙で捉え難い他者との境界線が存在しているのだ。その境界線は相互の深い理解を阻害する。だが、それは身を寄せ合うことで命を紡いできた我々にとって必要なものだと思う。内外を問わず、私たちは常に他者との関わりを持っている。たとえ無人島で暮らしても、自らに繋がれたザイルは外すことができないだろう。そんな我々にとって、隠れる場所は心の中にしかない。自分の避難所は、自分の中にしか存在し得ないのだ。生きていると一人取り残された感覚に陥ることがある。取り残されてなどおらず、最初から一人なのだ。

琵琶湖に傷心旅行

別に琵琶湖に行きたかった訳ではないのだ。ただ、自分が一度も訪れたことのない場所に行ってみたかった。高校を休むことには少々罪悪感を抱いたが、私の背負っている咎に比べると些細なものだと言い聞かせ、午前11時ごろに家を発った。徒歩で駅に向かい、新快速に乗り込んだ。「ノルウェイの森」の上巻を読みながら小一時間、村上春樹の世界観に浸ってる合間に景色はがらりと変わり、気付けば大津駅に着いていた。未知の世界への第一歩は常に楽しいものだ。歩を進めると、そこには当然見知らぬ景色が待ち構えていた。大津駅の広場は広々としており、街の通路が広く開放感が有った。大通りを10分ほど歩くと、目の前には琵琶湖が広がっていた。だが、手持ち無沙汰で琵琶湖の風情を感じるのも味気ないと思い、飲み物を買いに行き、その後再び琵琶湖と対面した。岸に近づき、手頃な岩に座ると、目の前に広がるのは湖と対岸の建築物だけであった。その景色は、社会との繋がりを断絶したいという私のエゴイスティックな願いを一時だけ叶えてくれた気がする。目の前に邪魔者はおらず、あるのは湖と私だけ。齢14歳にして喫煙者の肺のようになった私の心も、少しは綺麗になったかもしれない。もっとも、一度汚した肺は二度と戻らないのと同じく、私の邪を知らぬ心も汚いままだろうが。思えば、無知であることは救済となり得るのかもしれない。知恵の樹の実を食べ、自分たちが裸であり恥じらいの感情を知ったアダムとイブのように、我々は知ることにより苦しむことも増えるのではないかと思う。実際、私は何も考える必要のない小学生時代が一番幸せだった。成長するにつれ、人は社会を知り、社会の中での己を知る。自分の評価基準が社会に委ねられるのは、なんて寂しいことなんだろうか。そんなことを考えながら琵琶湖を眺めていた。その後、大津の街を散策してみた。よく言えば落ち着きのある、悪く言えば活気の無い街だったが、自分の心を落ち着かせることができたのは間違いない。整然とした街並みは、絡まってぐちゃぐちゃの心と対照的であった。しばらく歩き回った後、疲れてきたので帰ることにした。帰る際に乗った電車には、沢山の高校生が乗ってきた。私は普通の生活を望みながらも、それが叶わないこと、そして普通の子供を授かれなかった両親に罪悪感を抱きながら、「ノルウェイの森」の下巻を開いた。